カツ丼+ミニそばセット。
2008年4月アーカイブ
夕方には東京に向かう予定。
行ってきます〜。
打ち合わせを終えて学芸大学駅前にて。
大型連休(某公共放送ではGWのことをこう言う)の特番打ち合わせが終わって5F食堂で上ちらし!
「元少年」という表現はもう一度最高裁までいかないと変わらないのかとか、感情的に煽り続けてきたマスコミ報道の問題とか、気になることは山積みだけど、ここで敢えて「死刑の問題点」を考えてみた。
先日、6月公開の映画『休暇』を観た。結婚が決まっている刑務官が、新婚旅行に行く休暇をとるために、死刑執行の補佐役に名乗り出るという、まぁ、大雑把に言えばそんな映画なんだけど、要するに死刑を執行するということは、死刑囚を「殺す」人がいるということだ。
どんなにそれ(=死刑執行)が合法的であろうと、死刑囚がどんなに悪人であろうと、正常な感覚の人間に、第三者の命を絶つという行為が簡単に出来る訳がないという事実を突き付けられた映画だった。その事実を目の当たりにしただけで、僕のような死刑存続論者の気持ちも揺らいでしまうのだ。
兵隊が躊躇なく人を殺せるようになるまでには一ヶ月かかるという話を聞いたことがある。「殺さなければ殺される」という極限下でさえそうならば、死刑執行人の精神状態は果たしてどうなるのだろうか。
今回の判決は、あらゆる角度から「人を殺すこと」の意味を問うものだ。この判決を受けて、家族を殺された原告に「死刑になって癒されましたか?救われましたか?」と質問するということは、「理由はともかく、あなたも人を殺せることになりました。さて、癒されましたか?救われましたか?」と聞いているのと同じように感じてしまう。質問する側は勿論、そんなことは微塵も感じていないだろう。原告を目の前にして、感情移入するなというほうが難しい。
ただ、だからこそ、マスコミは冷静にならなくてはいけない。感情的で感傷的なマスコミと、冷静で論理的な原告。それじゃあ全くもってあべこべだ。
そんなアナタは、「それが仕事だから」と言って、3つ並んだ死刑執行のボタンの一つを躊躇なく押すことが出来るだろうか?
松屋でキムカル丼(大盛り)!
長崎皿うどん大盛り
最近、mixi がつまらなくなった。というのは、mixi そのものではなく、コミュニティの話なんだけど。
気がついたら、ラジオ、FM、Mac、音響関係、映画、音楽など、220 ものコミュニティに入っているのだが、最近は殆ど覗いていない。
何故、そうなったのだろうと考えてみた。
理由は簡単、数多くのコミュニティが「コミュニティ」ではなくなったからだ。
過去のトピックを読まないまま延々と話題がループしているコミュニティ、罵倒合戦が起こって管理人を引きずり落としたコミュニティなど、読むとうんざりさせられるものも多いが、もっと気になるのが、「人の意見を聞かないで、自分の意見をただ述べるだけ」という場所になっているコミュニティが多くなっていること。
その話題(トピック)に参加さえすれば満足なのか、とにかく自分の意見を発表できれば満足なのか、いずれにしてもそこに「正しいコミュニケーション」が存在していないのだ。(それなら日記に書けばいいと思うけど、それでは物足りない人が多いのか?)
パソコン通信→インターネット→ウェブチャット→2ちゃんねる…とか、テキストサイト→日記サイト→ブログ…みたいに、普及するにつれて敷居が低くなった分、増大するノイズが大きすぎる感じというか。
このノイズはなかなか淘汰されない気がするので、これを機会に、参加コミュニティの整理をしたほうがいいみたい。
他の人達はどうしているんだろう?
有名なコピペ&有名な動画だけど。
【中国の五輪参加状況】
1956年 メルボルン五輪…選手団が現地に到着後にボイコット(理由は台湾問題)
1960年 ローマ五輪…ボイコット(理由は台湾問題)
1964年 東京五輪…ボイコット(理由は台湾問題)■■開催期間中に核実験強行■■
1968年 メキシコ五輪…ボイコット(理由は台湾問題)
1972年 ミュンヘン五輪…ボイコット(理由は台湾問題)
1976年 モントリオール五輪…ボイコット(理由は台湾問題)
1980年 モスクワ五輪…ボイコット(理由はアフガン問題)
↓
2008年 北京五輪 「オリンピックと政治を結び付けるな」
うーん。
夕方、銀座ジャポネにて、インディアン(ジャンボ)。
深夜、自由が丘松屋にて、キムカル丼(大盛り)。
以上!
ご飯大盛りって言ったのに…。