…というわけで、早くも「続編」が掲載された。
「J-CAST テレビウォッチ : 国分太一くん、オレも左利きなんだ」
つまりは、
- 実は自分自身も、左利きである
- 直すのに苦労し、娘も直した
- でも、右で箸を持つのは「マナー」であり「作法」
- 「タレント」であり「役者」なんだから「マナー」を大切にするべき
…ということなんだそうだ。
うーん、やっぱりちょっと違うぞ。
一応、エントリー立てた責任もあるので、以下、引用しつつ私見を書いてみる。
小さいころ左手の箸について厳しく注意され、直すのにものすごく苦労した。娘も同類だったので、特殊なスプーンを買ってきて右手で箸が持てるようにした。だから、左利きの人を非難したり、軽蔑したりするつもりはない。
「直す」という表現をしている時点で、「左利きが非難されるべきもの」ということが前提になっているんだけど。
右手で箸を使ったほうがいいと思うのは、それが食事のマナー、作法だと考えるからだ。日本の文化では右手で箸を持つのが食事の作法とされてきたし、箸の置き方や料理の配膳の仕方は、右手で箸を持つことを前提にしている。
なんで右手で箸を持つことが前提とされているかというと、それは「右利きの方が多数だから」ではないのかしら? 少なくとも、今の世の中で「矯正」することによる弊害がいかに大きいか、という部分も考えて頂きたいところ。(参考:左利き 矯正 弊害 - Google 検索)
※っていうか、左利きについて「矯正」という言葉を使うこと自体、間違っていると思っているんだけど…。
この前、太一君が主演した「しゃべれども しゃべれども」という映画を見た。若い落語家という役どころを見事に演じていた。その落語の世界では、箸はかならず右手を使うように訓練する。型として決まっているということもさることながら、左手でそばを食ったら別の人物になりかねないからだ。 桂米助という落語家がいる。根っからの左利きで、矯正するには非常に苦労したらしい。あるとき、彼が出演した「隣の晩ごはん」というテレビ番組でうっかり箸を左手にもってメシを食ったところ「噺家の風上にも置けない」と、ふだんは温厚な師匠の米丸からこっぴどく叱られたという。
これはまぁ、異論なし。だけど、
太一君には役者として大成してほしい。テレビを見ている多数の視聴者に対する影響力も考えると、日本の食文化にのっとったマナーを大切にしてほしいと思うのだ。今回はそんなことが念頭にあったので、つい言葉に勢いがついてしまったのかもしれない。
というのはやっぱり違う。
これでは、「役者は右利きでなくてはならない」ということになってしまう。落語の世界は詳しくないけれど、左利きの物語が今までになかったのなら、その人物は右利きであるから演じる側も右利きでなくてはならないのはわかる。だけど、現実の世界には左利きはたくさんいる。無理やり直される人が減ったぶん、より多くなったと感じている人も多いはずだ。左利きの役者が「実在する右利きの人物」を演じるためには、右利きを演じなくてはならないということはあるだろう。だけど、「ドラマや映画には、左利きの人が登場しない」ということになったら、それこそ不自然で不気味なことだとは思わないだろうか?
世の中で左利きが「主流」ではないことは百も承知。別に優遇して欲しいとは思ってないけれど、結局「否定」されてしまうのは、やっぱり悲しいのだ…。
見えざる左手―ものいわぬ社会制度への提言 大路 直哉 Amazonで詳しく見る by G-Tools |